風狂知音
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風狂知音(ふうきょう・ちいん)は1996年春に結成されたJazzユニットです。 風狂という言葉は、[あやういことの中にこそ風雅を見い出して楽しむ]という意味をもち、知音は音楽の佳き友を指します。
メンバーは、Piano.田村博、Guitar.津村和彦、Vocal.覚張幸子の三人です。

 
本番に当たって打ち合わせ、リハーサルは一切しない。
 
歌手は選曲はするが、リズム、テンポ、曲想に関して全く白紙で臨む。
器楽者は決して伴奏ではなく即興者として臨むこと、カウント、目くばせ等はい一切しない。
三人は曲に関する一切の先入観を排し、個々独立して想うまま感ずるままに演奏する。
合わせようと意思するより、自然に合っていくことに価値を認める。
つまり誰も何も考えないということ、上記すら格別に意に介すべきものではない。
こうして三人の演奏が荒唐無稽のものとなったなら、それは三人の実力の結果であり、うまくまとまればそれは総てまぐれに過ぎないのである。

   風狂知音の演奏から今日この瞬間にだけ発生する音楽を楽しんでいただければ幸いに存じます。
                        ○ 田村博○津村和彦○覚張幸子
 
 
■piano■ Hiroshi Tamura


生まれは横浜である。十八歳の時にプロデビュー。以来、四十年近くジャズを弾き続けてきた。だが、私は音楽について語ることを好まない。
実のところ、私に感心があるのは恐竜なのだ。恐竜については一家言を持っている。暇さえあれば、発掘調査に参加する。この前は内モンゴルまで行って来た。なにもなかった。そりゃそうだ。恐竜は土の中などにいない。あるのは骨ばかりである。だが、私の心の中の恐竜はひたすら生きている。第一に私の身の回りはすべて恐竜である。飯茶碗にはじまり、下着に至るまで、恐竜が付いたモノ以外手にしない。私の恐竜コレクションは大したものであり、ほとんど美術館である。ゴッホなど目ではない。ティラノサウルスの美しさと言ったら、ほとんど至高のものである。私の中で恐竜は生きている。私の音楽も恐竜の時代の時間なのだ。十二音階などどうでもよい。誰が恐竜のリズムを音楽にしただろうか。いや私の中に恐竜は生きているのではない。演奏中の私は恐竜そのものなのだ。この時間を許容する風狂の音楽システムは、ほとんど原始時代の地球とでも言うべきものなのだ。覚張は原始時代の巫女であり、私に呪文をかけようとして奇声を発しているのだ。津村は、槍で私の尻を時々刺す。だが、私は恐竜なのだ。へこたれるものか。私の時間こそ風狂なのである。



 
■guitar■ Kazuhiko Tsumura

生まれは大阪。二十一歳の時にプロデビュー。以来、アケタの店(荻窪)を中心に三十年ほどジャズ一筋であった。 私は困っているのだ。覚張が時々音痴になる。聞くところによると音程などどうでもいいらしい。勝手に声が出りゃ歌なのだと、無茶なことを言う。ところが田村は、この覚張の音程が狂った瞬間に、全然これに合わせないで全く違った音程に変えていく。私はどうすればいいのだ。しかし、私は驚かない。その中にいるのが楽しいのだ。迷ったり悩んだりすることが、こんなにも楽しいのだ。やがて二人の狂気に触れない中道の、人間らしい道が見いだされ、私は狂わず演奏を続ける。中道の精神こそ揺るぎないものなのだ。 恐竜など知るか。巫女の呪文など中道の強靱さに比べれば、大したものではない。みな中道に従うのだ。実のところ、風狂で演奏する前日頃のライブでやれないことやってやろうと画策している。だが、始まると常に自分の持っている全てを出してしまう。そして何をやったのか何も覚えていないのだ。三人ともそうらしい。風狂の目指す音楽は消滅する音楽らしい。 そう、一音一音が消えていくのだ。だから三人とも控え室で反省などしない。計画も立てない。今晩何を食うかしか話をしない。時々、風狂の録音を聞かされる時がある。これはどこの国の音楽で、誰がやっているのか、心底戸惑うばかりである。

 平成27年6月17日逝去。 58歳




 
■vocal■ Sachiko Kakuhari

大阪生まれ。三歳から歌い続けている。毎日歌っている。稽古は河原。歌っていると、鳥が寄ってくる。鳥は素直だ。またある時、気づいてみると暴走族に囲まれていた。族のリーダーが言う。「何をやっているのか、呪文か?」私は「ジャズだ」と答えると、「ジャズという呪文か?」と真顔で問うのである。面倒だから「そうだ」と答え、スキャットをし始めたら、「こえー」と言って逃げていった。族は素直ではないから恐かったのだろう。津村と田村にこの話をしたら、族は鳥より素直なんだなあ、と感心していた。私は心を曲に乗せて歌うことを好まない。演技に過ぎないからだ。この演技は詞の意味に振り回される軟弱な精神から生まれる。しかし、詞は音であり、声であったのだ。詞の中にリズムもテンポもメロディーもあるのだ。だから歌い手は作曲者の音楽と、作詞者の音楽の二つを統合するものなのだ。従ってこの考えに基づけば、歌い手は分裂・統合を繰り返さねばならないのだ。まともの心根ではできぬことなのだ。そして、この分裂・統合は即興でなくてはならない。結成から九年。一度も褒められたことなどない。この歳になると、他人の評価などどうでもいい。人から恐れられ、顰蹙を買い続ける音楽人生も、佳いものなのだと居直っている。


 
  

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